【月明かりの下で
〜あの子はうちにとっては特別な子なの〜】
昨日彼女の家の犬が死んだ。
彼女の家は昔、彼女の兄貴が
高校生という若さで自殺してから、
両親も彼女もうつ病になって
ひどい状態だったらしい。
そんなときに
引き取ってきた犬だったそうだ。
ペットセラピーっていうのかな、
犬と接しているうちにみんな
だんだんよくなっていって、
また家族で笑い会える
ようになったって。
彼女も両親も
犬のおかげだって、
それはそれは犬を可愛がってた。
家族旅行へ行くにも
連れてってやってさ、
ほんとに家族みたいだった。
彼女なんて犬の散歩の時間になると、
デートの途中でも家に帰ってたよ。
何の変哲もない雑種だったのに
「あの子は
うちにとっては
特別な子なの」
っていつも言ってた。
その犬が
もういい年だったからさ、
最近は弱ってたんだ。
病院に連れてっても、
もう駄目だって言われたから
連れて帰ってきたらしい。
うちで最後を
迎えさせてやるんだ って。
それでとうとう
昨日の朝から呼吸が
途切れがちになったらしくて、
彼女は仕事を休んで
ずっと犬につきっきりだった。
俺は犬なんて
別に好きじゃないし、
どうでもよかったけど、
彼女が心配だったから
仕事が終わってから寄ったんだ。
もう暗くなってたけど、
月が明るかった。
彼女は庭の犬小屋の
そばの金柑の木の下で、
毛布を敷いて座って
犬を抱いてた。
そこは、木陰で涼しくて
犬がいつも寝てた
お気に入りの場所だった。
もう動けなくなってて、
彼女がスプーンで
水を飲ませてやろう
としても飲めなかった。
そうしているうちに
だんだん上下してた腹が
動かなくなってきた。
彼女はぼろぼろ涙を
流しながら犬を撫でてた。
彼女の両親も涙目に
なってそばに立ってた。
それでついに
呼吸が止まった。
腹も動かなくなった。
そしたら彼女が
すんげえ泣いたの。
もう泣くって言うか、
悲鳴みたいなのあげながら
嗚咽するの。
二十歳超えた大人とは
思えない泣き方だった。
俺と別れ話になって泣いた
ときとは全然違ってたから、
すげえびっくりして
しばらく呆然としたんだけどさ、
犬ごと彼女を抱きしめてやった。
それでも
彼女は泣き止まなくてさ、
庭先であんまりわあわあ
大声で泣いてるから、
隣の家の人が出てきたり、
自転車の高校生が
立ち止まったりしてた。
それでも誰も、
何あれー
とか言わねえんだよな。
みんな状況を見たら、
黙って手を合わせて
行くんだよ。
乳母車引いた
ばあさんなんか、
わざわざ庭まで
入ってきて、彼女に
「こんな明るい
お月さんの下で
死ねたんやでな、
迷わんときれいな
とこに行けたさ。」
とか言って慰めてんの。
俺は
何が月だ、関係ねーだろ、
とか思いながらも、
気づいたら俺も泣いてんの。
俺が来るたび
ほえまくってた
あの馬鹿犬なんか
ちっとも好きじゃ
なかったのに、
犬を埋めるために
金柑の下に穴を
掘ってやってんの。
俺は動物を
飼ったことなかった。
だから犬の扱い方も知らなかった。
撫でてやることすらしなかった。
初めて撫でてやったのは、
もうほえなくなった硬い体だった。
でも毛はまだふかふかしてた。
彼女が将来
俺と結婚してから、
犬が飼いたい
って言い出したら
飼ってもいいなと思ったよ。
でも俺は絶対、
彼女より後に死のうと思った。
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